Google
WWW を検索 acepuac.blogspot.com を検索

2008年9月13日土曜日

大圧縮と1940年体制

ポール・クルーグマンの「格差はつくられた」を読む。三上義一の訳。

原題は The Conscience of a Liberal 。素直に訳すと、リベラルの良心。

翻訳しか目を通していないけれど、クルーグマンが一般の人向けに書くものは面白い。

今回の発見は、アメリカの「金ぴか時代」「中産階級の時代」「保守派ムーブメントの時代」と続く推移が、決してグローバリゼーションや技術革新といった時代の趨勢によるものではなく、政治的な変化によって作り出されたものであるという意見があり、それが暴論ではないということ。

クルーグマンは本書の冒頭部分で「エコノミストたちは拡大する不平等に驚き、アメリカの中産階級の起源を探り始めたのだが、意外なことに1870年代から1900年代までの不平等な「金ぴか時代」から、比較的平等な戦後の時代への移行が段階的なものではなかったことを突き止めた。戦後の中産階級は、ルーズヴェルト政権の政策によってわずか数年の間につくられたものであった。」と書く。1920年代から50年代のアメリカで起こった所得格差の縮小、つまり富裕層と労働者階層の格差、そして労働者間の賃金格差が大きく縮小した時代が「大圧縮の時代」とネーミングされていることも披露する。

したがって、過去に人為的に良い時代をつくれたのだから、今後も不可能ではないと、「保守派ムーブメントの時代」の格差の拡大にややもすれば運命とあきらめがちな人々を鼓舞する内容につなげている。それはまた、格差の拡大が人為的なものであることに対する告発でもある。

この本から想起されたのは、野口悠紀雄の「1940年体制」論である。

「1940年体制」は2つの意味を持っている。「第一は、それまでの日本の制度と異質のものが、この時期に作られたことである。日本型企業、間接金融中心の金融システム、直接税中心の税体系、中央集権的財政制度など、日本経済の特質と考えられているものは、もともと日本にはなかったものであり、戦時経済の要請に応えるために、人為的に導入されたものである。」「第二の意味は、それらが戦後に連続したことである。」と野口悠紀雄は書く。

一方は回帰すべきもの、一方は克服すべきものととらえているという結論のベクトルの相違はあるものの、今までの通念(アメリカでは、大恐慌は記憶の中で生きているものの「大圧縮」はほとんど忘れ去られ、見果てぬ夢だと思われていた中流階層社会の実現が、あたかも当然のことのように思われ、日本では、太平洋戦争の終戦時に大きな不連続があったとする見方が戦後史の正統と思われている。)を否定していることでは通底している。

面白い鏡である。